定義する、というイザナギ仕事

青い月の嵐の年のMagnetic Moonにて、わたしの奥行きにあった「マイホームを建てて住む」という夢・目標・目的を明らかにし「わたしの望み」としてこのヨ次元上に放ってしまった。

 

Lunar Moonに突入し《マイホームを建てて住むとゆーのはわたしにとってどういうことなのか?》とゆー辺りをみつめることとなり、掘り下げ作業がはじまって。


自分の家が欲しい!
という想いはこれまでバンバン噴出していたし、その想いを放ってはいたけれど、こういった掘り下げ作業はしてこないでいたよなぁ、って。出来ないでいた、とゆーか。


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Q.それはなぜ?


A.どこかで「ムリだ」って諦めていたから、だね。



そのことが明らかになって愕然とし。


本気じゃなかった。ちっとも本気になっていなかった。ちっとも本気で取り組んでいなかった。


諦めてる、ってこーゆーことだったか、と。やはりベクトルを自覚認識するのって本当に重要なことなんだなぁ、って。

 

そして、

「ベクトルを揃える」とゆーこともね。


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本気で取り組める。
それは「全わたし」で「全わたし100%で」同じ方向を向けている状態のこと。


諦めているわたし。
叶うはずがないとおもえてるわたし。
夢を夢としておこうとしているわたし。


夢が叶わなかったら苦しいから。
本気で取り組んでるのにそれでも叶わなかったら苦しいから。絶望するから。


夢や目標に対して「損得・メリットデメリット」という極性思考を用いてみつめているわたし。


それだと「100%超えのチカラ」が使えない。それが制限下の在り方。


制限超えの位置で扱う量は実際には100%どころではなくて、1000%やら10000%などとゆー色々とアレな表現でしかあらわせない出力量なのだけど、制限下の位置ではそれを自覚認識することができない。


不可能なことなどない。
この表現を《一方向》でしか捉えられないでいてしまえるのが制限下という在り方。


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つーことで、


今年のわたしは「諦める必要性を全く感じなくなれてしまっているわたし」として存在できてしまっているので、地味にセッセと掘り下げておりました。


環境と時間
その2つのスタイルに絞って表現してくことにし。


・快適時間
・至福時間


を、


「マイペースマイリズムで体験するための場=マイホーム」と定義。


コレが定まったら色々と作業が動けだし。逆にコレが定まるまではなかなか作業に進めないでいました。


やはりわたしにとってはこの「定義づけ」作業は最重要行程。


夢が明らかにできたのならば、ここからはじめる。ここからはじめればスムーズ。


このヨ次元上でウムダスための場・ウムダスための環境を与えてやる仕事。定義づけ。これがイザナギ仕事。


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Life Style


シンプル・ミニマムLifeというイメージはあったのだけどちっとも具体化できずにいたんす。


でも、
ようやっとわたしの寝室のイメージが言語化でき。


・ホテルライク
客室のベットのように扱う・管理運営するStyle。眠ることに特化したツール・機能美・管理しやすさ重視。


なので、
ホテル仕様のモノで揃えた方がいいんだな、とおもえました。


グッズとしては、、、


ベット
・ホテルパジャマ
・ホテル枕
・ホテルマットレス
・ホテル掛け布団&カバー


ベットサイド
・ドリンク置き場
・充電環境
・ライト
・香りを嗜むグッズを少し
ボイスレコーダー


寝室
・絵を1枚。暗い絵。暗い森とか。
・小振りのクローゼット
・小ぶりのシャンデリア


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うふふ♪( ̄∀ ̄)


こーやって言語化(アウトプット)できたものをみつめ、それをまたインプットして咀嚼反芻するのです。


何度も何度も、全身全霊にしみわたりきるまで。しつこくねちっこく。だって大好きでたまらないから、わたしのことが。ぐふふ♪

洗脳の日常使い

生活=神事
と、自分に言い聞かせ続けてきて4年目に突入しています。


いまでは「その概念・その世界観」がすっかり日々の生活に根づきました。常識化・日常使い化。


自分(自神)の、
自分(自神)による、
自分(自神)のための、


、、、《洗脳》っす。


《洗脳》のポジティブ使いっす。


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で、
いま取り組んでる洗脳作業が


・生活=姿勢
・生活=ストレッチ
・生活=身体のgear機能の駆使


という「概念・世界観」の常識化・日常使い化。


で、
この洗脳作業のコツは「継続すること」のみ。簡単なお仕事です。


なので、
力んでしまったり頑張ってしまうと逆に続けにくい作業なんすよね。

 

そのため「息を吐くように洗脳する。」そんな習慣を先に身につける必要があるとゆーか。(←ほんとかよ。


なにしろ
《自分(小我・インナーチャイルド)に対してとことん甘く》


が、
最重要だとわたしにはおもえていて。


なので、
レーニングという概念や捉え方をわたしは使いません。使えません。そのベクトルはわたしもうムーリー。


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小我やインナーチャイルドのために「既存のハードル=教えこまれたおもいこみ」をどんどん下げてゆき・壊してゆき、昇華してゆき、最終的に全てのハードル(おもいこみ)を撤廃。


これがわたしにとっての「等化」作業ですし、これがわたしにとっての「橋を架ける」作業ですし。


わたしの中の小我やインナーチャイルドのためにしてやっている仕事・作業っす。


それは「自分内親子関係」における「親の位置のわたし」の仕事・作業で。

 

道筋を示す。道を拓く。

そーいった作業。


そのために必要となるツールは神剣天叢雲剣(草薙剣)。八岐大蛇の体内にあったあの神剣のことっす。


自分の中のスサノオと自分の中の八岐大蛇とをしっかり対峙させられた在り方が扱える神宝・神法・神剣のことっす。

 

自分内の見晴らしをよくするため使える剣。これツールを自分事としたことにより露骨に内観がはかどります。これまでの見晴らしの悪さがまるで冗談だったかのよーに。


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この等化作業・橋渡し作業は、


自分(自神)の、
自分(親の位置・higher)による、
自分(小我・インチャ)のための作業・仕事っす。


数字でいえば6の仕事だったり、9の仕事だったり、12の仕事だったりします。3の倍数仕事。



・姿勢
・ストレッチ
・身体のgear機能


これまでは重要視できないでいたこと。


では、
なぜわたしはこれらを重要視できないでいたのだろうか?


・生活=生産性(お金をうみだすこと)
・生活=社会的価値基準の反映


そんな価値基準をもちいて生活を営もうとしていたため、その価値基準をなかなか体現できないでいることに対して混乱していて。(そりゃムリだろに。)


それゆえに、自分自神にとって本当に必要な情報を見つめられないでいたんすよね、わたしの場合は。


で、
いまはそのおもいこみも剥げて。


なので、
わたしにとっての本当に必要な情報を日々「息を吐くようにインプットし続け、そのインプット情報を全身全霊にしみわたらせるためのアウトプット作業も日々セッセとこなしているわけで。


そのこと自体が呼吸。
そのこと自体がめぐり。


このヨ次元上のActionの何もかもは呼吸でしかなく。全てのActionを自分自神という在り方の呼吸としてActionしてしまえていればそれでいいんすよね。


自分自神内循環。


不本意に取り込んだおもいこみの一切を外してしまう。剥がしてしまう。壊してしまう。殺してしまう。


カタチあるものに死を与えてやれる。これがイザナミ仕事。これができるのがイザナミ

 

そしてイザナミと共にヨミ(黄泉)の位置で存在できているヨウカイ・ヨウセイの位置のわたしの仕事。創世のための破壊仕事。


モノとコトとオモイ。
一緒くたになって癒着して塊肉化しているものを丁寧に丁寧にひとつひとつほぐし解いてやる仕事。


それはとても面倒くさいですし、すごく億劫がってしまう作業。

 

「いっそのことこの塊肉のまま全部捨ててしまいたい!キィー!」とヒステリックになったりもしますし、なりまくりますし、なりまくりました。


それでも、
自分自神のためにやらにゃならんのです、わたしは。


自分が、自分自神が、
あらゆるわたしが大好きだから。


いまはソコが明らかになっているので、「キィーっ!」となって「キィーっ!」と騒いで、騒ぎきったらまた地味にセッセと作業をこなします。


こんなのは慣れの問題でしかないものなので「キィーっ!」の時間もどんどん短くなっていました。慣れるってすげー。


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今日も、
地味にセッセと自分自神のために息を吐くように洗脳作業をしています。


これがわたしの日常。
《洗脳の日常使い》

 

理解することを理解するといふこと/半田広宣さん

半田広宣さん(プロフィール – cave syndrome)の2006年2月14日のブログ投稿がすごく好きで。折りを見てはみつめ、その中に潜って漂ってみています。

 

理解することを理解するといふこと – cave syndrome

——「理解」とは宇宙の血流であるべきである。

「事物が織り成す意味はそれを眺めるのではなく事物のうちに棲み込むことで理解される」と言ったのはポランニーだけど、こと相手が人間だけではなく、あらゆる対象に対する理解の在り方はその中に「棲み込む」ことじゃないかと思う。棲み込む、というからには、理解とはその対象と同一化するということでもある。

つまり、知を「モノにする」ではダメで、知として「モノになる」じゃないとダメなのだ。僕が君を理解したというとき、僕は君になる。僕が動物を理解したというとき、僕は動物になる。そうした変身の技が理解本来の意でなくてはならないと思う。でないと、知に一体何の意味があろう。

 

知として「モノになる」

こーゆーことは感覚(体)の位置では分かっている・理解しているのだけれど、

当時のわたしはこーゆーことをこんな風に言語化・文章化していいとはおもえていなかったんですよね。

 

自分で「自分のその部位を封印していた」とゆーか。そして「自分の中にそーゆー部位があることが世間にバレたら殺される」と捉えていたとゆーか。

 

いまなら笑い話なのですが、

当時は本気で怯えていたわけで。

 

そんな部位が、こーやって言語化され文章として表現され流通していることを知ってビックリして。

 

・・・おお。

やっぱり言語化できるモノなんだ。

言語化してもいいんだ。

なーんだ、いいのか、と。

ものすごく脱力できたんですよねぁ。

 

言語化することでその情報を立体で・360°方向からみつめられる。

 

その情報を意識内に沈めているままでは面・メンとしてしか捉えられない。

 

このヨ次元上で情報を気持ちよく取り扱うにはこの立体化作業が必須なんですよね。なのにわたしはその作業をおこなうことを恐れていたわけで。

 

すでに知っていることを、

そもそも知っていたことを、

このヨ次元上であらわにする。

発信・体現してく。

 

そのことを自分に対して許しきり、覚悟をきめ肚をくくったのは2019年の冬。

 

2020年の夏至、このヨ次元上でそのことを「発信・体現できてるわたし」を体験していた。

 

やるぢゃん、わたし😆