理解することを理解するといふこと/半田広宣さん

半田広宣さん(プロフィール – cave syndrome)の2006年2月14日のブログ投稿がすごく好きで。折りを見てはみつめ、その中に潜って漂ってみています。

 

理解することを理解するといふこと – cave syndrome

——「理解」とは宇宙の血流であるべきである。

「事物が織り成す意味はそれを眺めるのではなく事物のうちに棲み込むことで理解される」と言ったのはポランニーだけど、こと相手が人間だけではなく、あらゆる対象に対する理解の在り方はその中に「棲み込む」ことじゃないかと思う。棲み込む、というからには、理解とはその対象と同一化するということでもある。

つまり、知を「モノにする」ではダメで、知として「モノになる」じゃないとダメなのだ。僕が君を理解したというとき、僕は君になる。僕が動物を理解したというとき、僕は動物になる。そうした変身の技が理解本来の意でなくてはならないと思う。でないと、知に一体何の意味があろう。

 

知として「モノになる」

こーゆーことは感覚(体)の位置では分かっている・理解しているのだけれど、

当時のわたしはこーゆーことをこんな風に言語化・文章化していいとはおもえていなかったんですよね。

 

自分で「自分のその部位を封印していた」とゆーか。そして「自分の中にそーゆー部位があることが世間にバレたら殺される」と捉えていたとゆーか。

 

いまなら笑い話なのですが、

当時は本気で怯えていたわけで。

 

そんな部位が、こーやって言語化され文章として表現され流通していることを知ってビックリして。

 

・・・おお。

やっぱり言語化できるモノなんだ。

言語化してもいいんだ。

なーんだ、いいのか、と。

ものすごく脱力できたんですよねぁ。

 

言語化することでその情報を立体で・360°方向からみつめられる。

 

その情報を意識内に沈めているままでは面・メンとしてしか捉えられない。

 

このヨ次元上で情報を気持ちよく取り扱うにはこの立体化作業が必須なんですよね。なのにわたしはその作業をおこなうことを恐れていたわけで。

 

すでに知っていることを、

そもそも知っていたことを、

このヨ次元上であらわにする。

発信・体現してく。

 

そのことを自分に対して許しきり、覚悟をきめ肚をくくったのは2019年の冬。

 

2020年の夏至、このヨ次元上でそのことを「発信・体現できてるわたし」を体験していた。

 

やるぢゃん、わたし😆