アイチの道とその道を進むモノとしての覚悟と責任

 

このヨ次元上で「自分の言葉」として扱うための作業。自分事にする・腑に落とすという作業。

 

感覚体の位置で「わーかーるー!」と強くおもえているだけでは、その情報・その概念をこのヨ次元上の小我の位置や身体(ケモノ)の位置で取り扱うことはできないでいるわけで。


それは、共感しているだけの状態では「自分事」になってないからで。意識体の位置での理解は、このヨ次元上での理解とは異なるんすよね。


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知る。愛知。philosophy(テツガク)。


・知るということを知る。

・理解するということを理解する。


ここまで落としこまないと、このヨ次元上で情報を自分事として扱うことはできない。これはもう「断言することが苦手なわたし」だけれど断言してしまおう。うん。これはもうわたし的には《絶対》なんだもの。


で、
ここを「絶対」としないことを普通・当たり前としていた価値観世界観が気色悪くて仕方がなかったんすよ、ずっと。こいつらチを、「知」をナメすぎてる。そうおもっていたんす。


だから、
半田広宣さんのこの表現と出逢ったときわたしは心底安堵できて。

理解することを理解するといふこと/半田広宣さん - Halcraft


いた。
ちゃんと居たんだ。
チの扱い方を知っているヒトがこのヨ次元上にも居たんだ。そーゆー安堵。


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チ(知)としてモノになる。


このベクトルをこのヨ次元で扱う在り方はまだ稀なんだとおもえていて。


けど、
稀でいいんですよ。


こんなのは誰もがやるような仕事じゃない。そして、誰にでもできる仕事じゃない。(本当はできますがw)


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わたしは「無明庵EO」という在り方をかなり好ましくおもえてしまえる在り方でもあって。彼に強く親近感・同類感・ナカマ感をもってしまうんすよね。


で、
半田広宣さんのノリと無明庵EO氏のノリ。この2つは「同じモノ」の位置違いの表現だよなー、っておもえたりもしていて。


この「同じモノ」にわたしが名をつけるなら「タイヨウケイ意識」となるかなぁ、と。


EO氏のお弟子さんが管理運営しているHPにEO氏の著書の一部分「反逆の宇宙」の抜粋が掲載されてるんすけども、わたしは時々ココにきてその表現と接しては深く安堵するんすよね。


で、
これまではそれだけで満足していたのだけども、最近あらたな欲が湧きだし。


これらをこのヨ次元上で「自分事として扱いたい」という欲。「自分の言葉」で放ってみたい。


やれやれ💧
これまた大仕事やん😓


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◆「反逆の宇宙」/よりの抜粋編◆

 

「反逆の宇宙」プロローグ

 

私は歴代のいかなる祖師たちも言わなかった事をはっきりと言っておく。
これはEOイズムの本質中の本質であり、この1頁を持っているだけで、
EOイズムの最大の要点を再認識することが出来るだろう。そしてそれは、
あなたたちの知っているような宗教理念や瞑想の道ではないという事だ。

 

本書の結論

私は、悟りを良き状態とは認識していない。
また全ての生命が最後にそのようにあるべきだとは全く認識していない。
この点で私はいかなる過去の祖師たちとも全く異質な認識を有している。

歴史上の祖師たちの誰もが、悟りの状態を絶対幸福として称賛し、
その為の何かを世間に対して行ってきた。
だが私の観察によれば、それは誰にでも起きるものでは断じてなく、
また単なる努力の量によって起きるのでもなく、人類のほんの一部の者に
しか起きないと断言できる。そしてそれが起きた結果として、それが他人
や社会に何か平和的で創造的な結果をもたらすなどとは認識していない。

それは、本人ただ一人の安楽な死を保証するのみである。
そして、悟りはそれが本当に顕在化しなければならないような時には、
自発的に生まれるものである。

又それは一般の人々や瞑想者には全く不要な出来事である。
また、それは一般の人に「ここへ来なさい」と言えるような理想状態では
ないと私は痛感している。それは我々のような、特殊な心理的病魔に侵さ
れてしまった者にとっての最後の麻酔のようなものであるとすら私は認識
している。確かにそれは静けさと安らぎに満ちているが、その為に、人間
が支払うべき代償はあまりにも高くつくものとなる。それは「魂を捨てる」
という事ですらあり、感情ある生き物にとっては耐えがたいものとなる。

悟りが本当に必要とされるのは、修行僧でもなく、宗教家でもなく、愛や
幸せを求める人間でもなく、瞑想者でもなく、自己放棄という自己満足の
為に人々につくそうとする者でもなく、芸術家でもなく、病人でもなく、
セラピストでもない。それが本当に必要なのはたった2種類の人達だ。
それは『真実を求め過ぎた狂人たち』と『妥協なき哲学者』のみである。

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わたしなんぞはこの「真実を求めすぎた狂人」でしかないんすよね。

 

この「狂人の自覚」をもてるかどうか。
そして、そのことにおいて責任を負えるかどうか。


ぢつは、ココが最も重要なんだとわたしにはおもえているんすよ。


「テツガクする在り方」が、《まとも》だなんてありえないことなんすよ。あったらおかしいことなんすよね。


愛知の道。

それは一切の妥協ができない、人間としてはとてもとても《残念な在り方》だけが進める道。


わたしにはそうおもえているんすよ。


だから、
マトモ(マジョリティ)であるはずがないんすよ。


そのことを言語化してこのヨ次元上に晒してくれたEO氏がわたしは大好きなんすよね。


この愛知(キチゴイ)を、カッコいいもの・崇高なもの、という認識へと《すり替えた奴ら》が気色わるくてたまらない。


テツガクを「崇高なもの」と捉え自負してるような在り方が気色わるくてたまらない。反吐がわく。殺意が湧く。


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わたしは、
一切の妥協ができない、人間としてはとても《残念な在り方》であり、


その在り方としてわたしはアイチの道を進む。


これがわたしのチに対しての覚悟。
これがわたしのチに対しての責任。


はぁー
この辺りが言語化できてよかった。
スッキリした♪